常磐会の歴史

我々、常磐会が創設から現在まで歩んできた道を、おおよその時系列で紹介しています。

常磐会の歩み

昭和45年11月吉日 曳馬産業社長・山口栄治氏より

大太鼓 一尺九寸 一張 145,000円
小太鼓 締め太鼓 二個 35,000円
計 180,000円

初代・常磐会記録帳の画像
初代・常磐会記録帳

昭和46年1月17日 8トラテープに全お囃子を収録

本町・古澤屋にて 天宮・小川電機作成
山口栄次、吉川儀、鈴木勝巳、山口時寛、松浦要三、堀内真吉、内藤良一、浦野省三、松浦清、庭常、鈴木栄、鈴木政司、森下若太郎、竹内藤太郎、鈴木邦平、寺井国彦、鈴木正一郎、藤原政雄、鈴木政夫、竹内昇、松本正幸、鈴木文夫、鈴木征司、小川勘吉(順不動24名)

昭和46年5月 凧揚げ

藤原政雄、鈴木文夫、内藤良一、鈴木政夫、松浦要三、森下若太郎、鈴木勝巳、吉川儀、山口時寛、浦野省三、鈴木征司、鈴木金吾、竹内昇、寺井国彦、加藤令司(順不動15名)

昭和46年11月 友好町・北海道森町へ

福祉センター落慶祝賀会出席、遠州森の祭囃子を発表
藤原政雄、鈴木正一郎、松浦要三、松本正幸、田村元斎、浦野省三、森下若太郎、内藤良一、鈴木邦平、鈴木文夫、鈴木正太郎(和歌山)、森町役場から鈴木助役、薮下総務課長、奥宮住民課長(順不動)


昭和47年3月4日 定例研修会 森町・萬松寺

積立会費 500円
企画部設立 榊原繁男、島恭一、佐々木菊夫
※毎月の定例会の会場は、萬松寺、三島神社社務所、公民館持ち廻り

昭和47年5月 端午の節句・凧揚げ

※凧糸の籠に入った会員が、太田川の流れの上を水切りで飛ぶ石のように、凧の勢いに引きずられる

昭和47年6月 常会(定例研修会)


昭和47年8月
掛川竹友会と吉川にて鮎の塩焼きで懇親会

竹友会最高顧問 森平氏(81歳)参加

昭和47年9月 於天宮神社

大当番、並びに各社社員、石松囃子一段、二段稽古 佐々木菊夫氏、鈴木勝巳氏が指導


昭和48年3月 石松供養祭にて

石松囃子報告発表(※初めて披露する)

昭和48年9月 三島神社・奉納笛竹採り

森町黒田 中野伊一郎氏の竹林

昭和48年9月
石松囃子各社指導・練習会 萬松寺にて

実施日:9月19日、20日、21日、24日、25日、26日
参加人数:常磐会(各日10名~15名)、各社(各日30名~35名)

昭和48年10月17日
NHK稽古風景撮影(10月25日放映)

大笛奉納の件で中日新聞が取材に見える

常磐会創設者・鈴木文夫(中央)、名誉会長・鈴木勝巳(左)、康一(右)の画像
常磐会創設者・鈴木文夫(中央)、名誉会長・鈴木勝巳(左)、康一(右)

昭和48年10月28日 常磐の笛(大笛)

三島神社壱阡年の昔に戻って神々しく献納される

昭和49年9月1日~15日 栄町公民館

石松囃子常磐太鼓三段の練習 落ち着きのある重味の打ち方こそ、改革森の祭典にふさわし


昭和49年9月 向天方公民館

各町内選抜祭り若衆数名ずつ常磐太鼓の練習
実施日:9月17日~19日、24日~26日 指導:常磐会

昭和49年9月 向天方公民館

各社若衆選抜 森町祭典囃子・常磐太鼓三段打(一段~三段)、最後の仕上げに入る(午後10時完修)


森町・三島神社に奉納された常磐の横笛の画像
森町・三島神社に奉納された常磐の横笛

昭和49年10月24日 鈴木正一郎宅にて

お祭り広場に於ける屋台囃子競演採点方法協議
委員長:鈴木文夫 副委員長:藤原政雄 委員:鈴木勝巳 他11名

昭和49年12月1日、2日 常磐会念願の夢・一泊旅行

下呂温泉、高山屋台会館

昭和49年12月7日
翌年の新年会に向けて手古舞披露

昭和50年4月13日 第1回・竹友会との法多山花見

昭和50年9月15日 敬老の日・お囃子演奏


昭和50年9月15日 手古舞衣装一揃

榊原繁男氏美容室より寄贈

昭和51年5月
大太鼓の文字書:藤原政雄 彫刻:川原町中山氏


昭和51年6月1日
大太鼓撥(ばち)一対 加藤令司氏寄贈

昭和51年8月
弥太下一段・本町公民館にてお披露目


昭和51年9月 各社お囃子練習・天宮神社神宮寺にて

昭和52年9月 弥太下二段 初披露


昭和53年3月12日 石松道中と共に屋台曳き廻し

各町内を練り大洞院へ

昭和53年7月 石松囃子の依頼あり・指導する

森町問詰、牛飼、大河内、草ケ谷、園田、鍛冶島他

昭和53年9月 大当番・弥太下大太鼓指導

9月11日~14日 於蓮華寺 実施さる三段迄

昭和54年9月
藤間流踊を導入・金10万円也 他衣装求

藤間勘市穂氏から振付を習う
現在の「おかめひょっとこ」手古舞の原点

掛川城天守再建記念(平成6年)の画像
掛川城天守再建記念(平成6年)

昭和55年5月 NHK『あなたの町から』30分

東海北陸地区テレビ放映する

昭和55年7月 葛城北の丸出演


昭和55年9月 常磐太鼓・森町指定文化財に指定さる

昭和56年9月 遠州の響き 和太鼓競演会


昭和56年9月 名古屋駅前にて石松囃子外披露

松坂屋テルミナ広場

昭和56年10月 森町文化協会に加入・文化祭出演


平成21年11月・国民文化祭にての画像
平成21年11月・国民文化祭にて

平成2年11月 もりもり2万人まつり出演

森町営グラウンド

平成8年4月28日 宮囃子大太鼓譜面作成出来上がり

平成2年 一般コミュニティ助成金にて購入

大太鼓:840,000円×2 小太鼓:64,000円×4
お面:50,000円×2

平成21年1月 常磐会創立50周年式典開催

掛川グランドホテル

平成21年11月 国民文化祭出演

森町・西光寺にて


石松囃子の由来

 森町祭り囃子は、太田川右岸に鎮座する三嶋神社の歴史と一緒に出来たもので、三嶋神社の御神体は大山祇命(おおやまづみのみこと)で約一千年前の平安時代からの歴史を持っており、そのままの形で現在に継承されております。

常磐会内での笛口伝書の画像
常磐会内での笛口伝書

 昔、現在の下宿、川原町、本町、仲横町、新町を以って森町村と称した。

 三嶋大明神は、森町村の守護神で古くから各部落が輪番制にて、毎年旧暦の九月九日に祭禮を行なっており、其の歴史も神社の祭神命と共に古いものである。

 

 森町村は天領として中泉の代官の支配下に在ったが、幕府により旗本土屋主税が三千石の領地として森町村、石川、中田、粟蔵、草ヶ谷、上河原、天宮、橘、以上八ヶ村を賜り江戸との交流も盛んとなり、祭り囃子も江戸風な派手なお囃子等を取り入られ、明和六年(1769年)七月、森町村各部落総代の祭典に対する屋台の曳き廻し、狂言、催し物等申し合わせ事項の古文書が現存されており、尚その後、弘化二年(1845年)には前記明和六年七月の申し合わせ事項を再確認する古文書も在って、当時の森町村各部落の総代が守神様に対する神仰と年一度行なわれる祭典に万全を期した事が伺われる。

 

 それ程慎重を期して計画された祭典も、文久三年(1863年)九月の例祭に、ふとした事から本町と下宿との若者連中大喧嘩があり大騒動となって、それ以後争いが続いて各町はそれぞれ屋台、祭り道具を売却してしまい祭典も中止された。

 

 その後明治二十二年、向天方、天宮、城下、橘、森町村五ヶ村が合併して森町となり、祭禮も漸次復興して日清戦争後の戦勝祝賀の時には旧に倍して祭典も盛大になり、各町競って屋台も立派になり、祭日も十一月一日より三日までに定められ年番、大當番と係も定められた。

 

 祭り囃子も、祭典の歴史の如く変革があったが、大別して他国との交流が無かった素朴な時代のお囃子に「雨垂れ」がある。何となく華やかな裡に哀愁を帯びる森の祭り囃子の代表的な曲である。旗本土屋主税が当地の領主となった時期、江戸の派手な三社囃子を取り入れた「屋台下囃子」、明治中期に於いて戦勝を記念して景気のよい「馬鹿囃子」等で数曲の傑作を正しく守る会が同好の志に依って「常磐会」なる名称を以って結成され、正しく後世に伝えるため青少年の後継者づくりを行なっている。

 

 何もの会員が無欲心で竹を割ったような者の集まりであるから、町の人たちは常磐会連中のお囃子を、いつの日にか「石松囃子」と呼ぶようになった。

 

森町観光協会会長 山口栄治

石松囃子保存会 常磐会

屋台の後で柱を背に立って笛を吹くのは?

元々は、屋台の中の中心辺りで障子を背にして立って吹いていましたが、昭和30年頃、慶雲社の朝祭りで参加する若衆が少なく、手木が重くて大変なので少しでも軽くなるようにと、当時笛を吹いていた内藤良一氏と鈴木勝己氏が、屋台の後ろに出て吹いたのが始まりです。